せっかく八月が始まったばかりなのに、言い換えると夏が始まったばかりなのに、今日は台風接近の影響で時折強い雨が降ったり曇ったりの一日だった。台風は九州に上陸してその後日本海に抜けるとのことで東海地方には直接の影響はないとのことだ。
先月30日、 イタリアのミケンランジェロ・アントニオーニ監督が亡くなった。94歳だったそうだ。仏のゴダールなどと並びヌーヴェルヴァーグの一翼を担った監督だった。といってもボクはそんなに多くを観たことはない。覚えているのは「太陽はひとりぼっち」とか「欲望」とか「情事」くらいだけど、高校生のボクに特に強烈な印象を残したのが「情事」だった。ただしタイトルが示すような内容が高校生のボクにはインパクト強くて、、とかいうことではない。批評家たちは「愛の不毛」と呼んだが、あの不確かで立場の曖昧なままの人間関係はいったい何なのだろう?この映画が表現したいことはどういうことなのだろう?しかしそれでいて妙に心に強く残るのはどうしてだろう?という不思議な魅力だ。
40年近く前に一度観ただけなのに強い印象を残し、いくつかのシーンは今も鮮明に思い出せるほどボクに影響を与えた映画なのだけど、永らくその魅力を言葉で表すことが出来なかった。そしたらこの度の監督逝去の報に関して学習院大学の中条省平氏が朝日新聞に書いている記事があって、それを読んだらボクの心に40年前に生まれたモヤモヤとした疑問がやっと氷解したような気になった。以下は朝日新聞より抜粋。
* * * * * * * * * * * *
「情事」ではある女が蒸発する。彼女の行方を恋人と女ともだち(モニカ・ヴィッティ)が追うが、見つからない。原因不明の状況の変化のなかで、人間たちは確かな関係を築けないまま、さまよい続ける。こうしたテーマはを批評家たちは「愛の不毛
と呼んだが、問題は愛だけではない。アントニオーニが投げつけたのは、世界の成りたちについての根源的な問いだった。
アントニーニは因果関係の明らかな物語を描かなかった。世界は断片化し、明晰なイメージの集積であるにもかかわらず、それが秩序だった物語や世界像に構成されることは無い。この世界認識から映画の<現代>が始まったのだ。
* * * * * * * * * * * *
うまく言えないんだけど、あそうか!そうだったのか!なーるほど、という思いがボクにはある。どうもこの状況というのは数年前に知った、ニーチェから現代哲学が始まったというハナシと似てないかい?しかしてこれら両者に惹かれているボクはいったい何を求めているのかなあ?その本質は何なんだろう?